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国史跡 武蔵府中熊野神社古墳

更新日:2016年4月1日

全国的にも非常に希少(きしょう)な上円下方墳!

画像 武蔵府中熊野神社古墳全景
武蔵府中熊野神社古墳全景

武蔵府中熊野神社古墳とは?

武蔵府中熊野神社古墳は、飛鳥時代の7世紀の中頃(今から約1350年前)に築造された古墳であり、四角い墳丘(ふんきゅう)の上に丸い墳丘が重なった形で、上円下方墳と呼ばれています。この形は、古墳時代の終わり頃に造られるようになった、全国的にも非常に希少な形の古墳です。武蔵府中熊野神社古墳は、国内の発掘調査により確認され、石が()かれている上円下方墳の中では最大規模であり、もっとも古いものです。

古墳の形と大きさ

古墳は、三段構造で各段とも盛り土で築かれています。上から見た形は、1段目と2段目が正方形で3段目が円形です。2段目と3段目は全面が河原石(かわらいし)で覆われています。側面を「葺石(ふきいし)」、上面を「貼石(はりいし)」と呼びます。1段目の外周には直方体に面取りされた切石(きりいし)による「縁石(えんせき)」が並べられています。南側の切石は、石室前を占める前庭部の縁石に接続し2段目の側面に接合しています。2段目の側面は小口積みという積み方で、上面は扁平な河原石と丸い小石が平らに敷かれています。2段目の南側を切り込む形で石室の入り口が設けられています。入口は切石で組み立てられています。3段目は葺石が円環状に積まれ、その上は、扁平な河原石で覆われたドーム風となり、最上部は石が平坦に敷かれたと推定されます。
古墳は、中央の支配権力を目に見える形で表したもので、大きさや形に政治的意図が反映されると考えられ、設計法が研究されています。武蔵府中熊野神社古墳の墳丘にも規則的な設計が見いだされます。古墳全体の中心軸は真北よりも西へ7度傾いており、磁北(じほく)に近い方向を示しています。墳丘の1段目の一辺の長さ32mは、上円部の直径16mの2倍です。2段目の正方形の一辺の長さ23mは、上円部がすっぽり収まる正方形の対角線とほぼ同じ長さに造られています。これらは、1尺が約35cmの高麗尺と呼ばれる単位で設計されたものと考えられます。調査時に残存していた古墳の高さが約5mありました。そこで、復元の高さは、高麗尺での18尺に近い約6mとしています。

石室の構造

石室は、横穴式石室(よこあなしきせきしつ)で、三室構造でした。一番奥の玄室(げんしつ)は、壁面が丸みを帯びた部屋で、奥壁は特に大きな石が使われていました。壁面は切石で組まれ、床面は平たい河原石が敷かれていました。
墳丘の断面をみると、異なる土の層を重ねる版築(はんちく)工法が採用されています。ロームを盛って一端突き堅め、その上に黒土混じりの土を盛って突き堅めるということを繰り返し築いています。また、石室に使われた石の削り屑が混じった層もある事から、石室造りと墳丘造りの作業が並行して進められたと考えられます。また石室の下もロームを主体とした土により版築工法をしており、石室を支える頑丈な基礎となっています。

出土遺物

石室内に、埋葬時の副葬品は、ほとんど残っていませんでした。しかし、ガラス玉・鞘尻金具(さやじりかなぐ)・環金具・釘が残されていました。
この中で特に注目されるのは、大刀(たち)の一部である、鞘尻金具に刻まれた「七曜文(しちようもん)」という文様です。これは和同開珎(わどうかいちん)(708年初鋳)よりも古いといわれる富本銭(ふほんせん)にもみられる文様ですが、さらに7世紀後半のものと考えられます。また、遺体を納めた棺の飾り金具と思われるものも出土しており、被葬者は木製の棺に納められたと思われます。釘類が2箇所にまとまっていたことから、埋葬が二度以上行われた可能性も考えられます。

築造時期

石室の形態や鞘尻金具の特徴やその出土状況などを総合して考えると、この古墳は7世紀中頃には造られていたと考えられます。この頃は、畿内の中央政府によって、統一された日本の国が形づくられようとしていた時代であり、武蔵国に国府が置かれる直前と考えられます。
それまで各地域で造られていた古墳とは異なる形態の上円下方墳は、時代の変化を示すとともに、府中に国府が設置された背景をうかがわせる歴史的に主要な築造物といえます。
熊野神社古墳に類似した石室には、八王子市の北大谷古墳や三鷹市の天文台構内古墳があります。これらの古墳も7世紀代の古墳と考えられています。本古墳には掘り込み地業(ちぎょう)等の少し新しい特徴があります。

国史跡武蔵府中熊野神社古墳展示館

1階出入口横に、案内窓口があります。展示ホールの大型ディスプレイでは古墳のビデオを上映しています。階段の壁面には、旧石器時代から現代に至るまでの府中市の歴史年表と市内にある国指定史跡の写真パネルを展示しています。
2階には、鞘尻金具のレプリカの展示や、古墳断面のはぎ取り土層が壁一面を使って展示してあります。古墳に使われていた葺石・貼石・石室の石材などの実物資料と石室入口模型もあわせて展示しています。
また、古墳の謎を探る手がかりを、パネルにより解説しています。

武蔵府中熊野神社古墳石室展示室

この石室展示室は、発掘調査によって確認された成果より、石室が造られた当時の状況にできる限り近い状態で復元しました。調査時点で確認できなかったところは推定復元をしており、この部分は区別がつくようにモノトーン(灰色)で表示しました。
石室展示室は当時のままに復元していますので、床面は河原石のため平らでなく、出入口も小さく段差があり、部屋を仕切る柱や梁などの石が出ていることから、足下や頭などに注意し、壁に寄り掛からないように見学してください。

周辺の遺跡

多摩川流域では、4世紀末には下流域の大田区や世田谷区で前方後円墳や円墳が造られます。5世紀末から6世紀になると府中市周辺にも小さな円墳が造られてきます。その頃、熊野神社南方に所在する御嶽塚やその東方の高倉塚古墳に代表される小円墳が造られたようです。これらの中には、墳丘に埴輪が並べられた古墳もあったと考えられます。7世紀前半頃に造られた古墳には、多摩川の河原石を積みあげて築いた河原石積の横穴式石室が造られていました。そこには、大刀や耳飾りなどの副葬品が納められていました。これらの古墳に葬られた人々は、小地域の有力者であったと考えられます。
熊野神社古墳は、これらの小円墳から離れて造られています。なぜこのように離れたところに造られたのでしょうか。その答を推測する手がかりは、この古墳の造られた年代にあると思われます。飛鳥時代は、畿内政権が日本列島に共通した政治の仕組みをつくり、一つの国にまとめようとしていた時代で、それまでのようには古墳が造れなくなります。こうした規制がある中でも地域の有力者の一部は大型の方墳や円墳を造りました。熊野神社古墳は、そのような卓越した力を持つ人の古墳と考えられます。熊野神社古墳が築造されたすぐ後に東山道武蔵路が敷設され、次に武蔵国の国府が置れます。熊野神社古墳は古代の府中で展開していくいくつかの大事業の出発点ともいえる存在です。保存・整備された熊野神社古墳を通じて、皆様に古代へのロマンを感じていただければ幸いです。

基本情報

所在地

府中市西府町2丁目9番地(熊野神社境内)

アクセス

JR南武線西府駅徒歩8分
京王バス西府町3丁目徒歩4分、京王バス西府町2丁目徒歩4分
注記:駐車場・駐輪場はありません。

入場料

無料

テーマ

無料で楽しむ

ジャンル

文化・歴史

お問合せ

このページは政策総務部 政策課が担当しています。

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