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ちょっと変わった府中の地名

更新日:2018年5月28日

「府中」という地名は、奈良・平安時代に武蔵国の国府が置かれたことに由来します。古くから政治・経済・文化の中心地として栄え、江戸時代には甲州街道の宿場町(しゅくばまち)となった府中には、長い歴史や由緒を感じさせるちょっと変わった地名が現代まで残っています。ここではその地名の一部と、周辺の観光スポット等をご紹介します。

片町

「片町」という地名は、幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』の中に、「番場宿」(現在の宮西町2、4、5丁目付近にあった甲州街道の宿場)の小名(こな)として登場しています。甲州街道の開通(慶安(けいあん)年間=1648~52年頃)に伴い、街道に沿って生まれた集落ですが、街道の南側には高安寺が広大な敷地を有していたため、集落が片方(街道を挟んで北側)だけに発達したことに由来しています。
片町周辺は、発掘調査によって、奈良・平安時代の竪穴建物跡などの遺構や、土師器・須恵器などの遺物が数多く発見されている地域です。片町1丁目付近は昭和29年に府中で最初の発掘調査が行われた場所でもあり、「府中の考古学発祥の地」であると言えます。

高安寺

曹洞宗の寺。平安時代に藤原秀郷(ふじわらのひでさと)市川山見性寺(しせんざんけんしょうじ)を開いたのが始まりとされています。また、平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経が立ち寄ったといわれ、武蔵坊弁慶ゆかりの井戸跡があるほか、周辺に「弁慶橋」「弁慶坂」などの地名が残っています。
その後南北朝の戦乱の時代を経て荒廃しますが、足利尊氏(あしかがたかうじ)によって、戦に倒れた武士たちの冥福を祈って全国に建てられた「安国利生(あんこくりしょう)」の寺として再興されました。鎌倉公方の庇護のもと大いに栄え、合戦の際にはたびたび本陣が置かれています。
境内には、都選定歴史的建造物の「本堂」「山門」「鐘楼(しょうろう)」、都指定文化財の「木曾源太郎墓」、市指定文化財の「観音堂」「野村瓜州(のむらかしゅう)の墓」「高林吉利の墓」などがあり、多くの歴史文化遺産と府中崖線沿いの豊かな緑に恵まれています。

片町文化センター(片町2丁目17番地)

アニメ「ちはやふる」で、主人公の綾瀬千早と真島太一が幼少期に所属していたかるた会である「府中白波会」の活動場所として、片町文化センターと、その周辺の京王線踏切・遊歩道などが登場していることから、最近では「聖地巡礼」と称して多くのファンが訪れるようになりました。今年7月には、アニメ「ちはやふる」の登場人物・原田秀雄のモデルとなった前田秀彦氏(全日本かるた協会8段)をゲストに迎え、模範試合を行いました。

分梅(ぶばい)

古くは「分倍(陪)」や「分配」の字があてられ、「ぶんばい」と呼ばれていたこともありますが、近世以降には「分梅(ぶばい)」が用いられるようになりました。現在では、JR南武線・京王線の駅名は「分倍河原」、町名は「分梅町」が使われています。地名の由来としては、この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために、口分田(くぶんでん)を倍の広さで給した土地であった、という説があります。

分倍河原の合戦

分倍河原駅の南口に「新田義貞公之像」があります。これは、鎌倉幕府滅亡の大きな契機となった「分倍河原合戦」で、鎌倉を目指す新田義貞をイメージして作られたものです。

ここで、分倍河原合戦についてご紹介します。

【登場人物】
後醍醐天皇:時の南朝・大覚寺統の天皇。当時の天皇家は南朝・北朝の2つに分かれていた。
足利尊氏(あしかがたかうじ):源氏の有力な武士。足利氏はその中でも名門とされていた。
新田義貞:源氏の一族。長く足利氏の影に隠れて日陰者だった。政治が揺らぐタイミングで不満を抱えていた多くの武士の勢力を集め、鎌倉幕府を滅ぼすために立ち上がる。
北条泰家(ほうじょうやすいえ):鎌倉幕府を事実上支配していた北条氏一族の有力者。

後醍醐天皇による数度の討幕計画発覚により、元弘(げんこう)3(1333)年5月7日、幕府軍として京都に来ていた足利尊氏(あしかがたかうじ)は、丹波国篠村八幡(兵庫県篠山市)で寝返り京都における幕府の拠点、六波羅探題の攻撃を開始しました。
新田義貞が上野国新田荘生品明神(こうずけのくににったのしょういくしなみょうじん)(群馬県太田市)で蜂起したのは、その翌日5月8日のことでした。12日に新田荘世良田(にったのしょうせらた)で旗揚げした足利千寿王(あしかがせんじゅおう)尊氏(たかうじ)の子)や上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵と合流し、5月9日に武蔵国に入りました。新田軍の兵員は、総勢20万7000騎に膨れあがり、挙兵を聞いた幕府の北条氏は、この時一族の有力武将であった金沢貞将の軍5万騎を下河辺(埼玉県東部)に、桜田貞国(さくらださだくに)の軍6万騎を鎌倉街道上道の入間川(埼玉県狭山市)に差し向けました。最初の合戦は11日に小手指原(所沢市)で行われましたが、この時は勝敗がつかず、新田軍は続いて久米川を攻めると、北条軍は分倍(府中市)まで退きました。戦況の悪化を聞いた鎌倉幕府は執権・北条高時(ほうじょうたかとき)の弟の北条泰家(やすいえ)の軍10万騎を分倍に追加派遣し、これを知らなかった新田軍は15日未明に分倍に押し寄せたものの敗れ、再び堀兼(狭山市)まで敗走することになったのでした。『この時北条軍が迫っていたのであれば新田義貞は討死したであろうに、それが北条氏の運命の分かれ道だった。』と「太平記」は述べています。そして最後は三浦氏の一族の太田和氏(おおたわし)率いる6000余騎が幕府軍から寝返って新田軍に加わり、翌16日未明に分倍河原の北条軍の陣を急襲する作戦に出ました。前日の勝利に油断していた北条方の武士たちは、寝ていたり、泥酔して前後不覚の者がいる始末だったと伝えられています。新田軍は北条軍を圧倒し、続いて関戸(多摩市)で多摩川を渡りました。
北条軍は散り散りになり、鎌倉をめざし逃避していきましたが、後を追うようにして新田軍は鎌倉に向かい、極楽寺の切通し、巨福呂坂(こぶくろざか)・化粧坂の三方から攻撃を開始しました。そして稲村ヶ崎を突破して鎌倉に侵入すると、北条高時(たかとき)以下は、東慶寺のやぐらに逃げこんで自害し、ついに鎌倉幕府は滅亡してしまったのでした。
分倍河原合戦で興味深いのは、久米川で負けた北条軍の敗走及び幕府の援軍の派遣先が、「分倍」だったことです。分倍は鎌倉幕府にとって軍の再構築を図る軍事拠点であり、現在も府中市分梅町に地名が継承されている分倍は、六所宮(ろくしょぐう)のある町の中心から西に約1.5km離れた周縁部にあたりますが、鎌倉街道上道が通過し宿として町場(まちば)ができていたようです。弘安(こうあん)年間(1278~1288)頃の武蔵国留守所代連署書状(むさしのくにるすどころだいれんしょしょじょう)には「府内分陪」と記され、府中の領域内であることもわかります。また、府中には国内の軍事指揮権を有する国衙もあり、分倍河原合戦は、国衙と分倍という政治的・軍事的な拠点をめぐる争奪戦という性格を持ち、そうした拠点を含んだ都市の周縁部で繰り広げられたものだったとも考えられていて、当時を想像すると興味は尽きないものがあります。

「分倍河原古戦場」は都の旧跡に指定されていますが、現在は古戦場の面影はなく、実際に合戦が行われた正確な範囲も定かではありませんが、分梅町2丁目37番地(新田川緑道内(しんでんがわりょくどう))には「分倍河原古戦場碑」が建てられています。

是政

東京競馬場の南側から多摩川にかけての地名「是政」は、井田是政という人名に由来していると言われています。井田是政は戦国時代に北条氏に仕えた武士で、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原攻めで主家(しゅか)が滅びた後、戦乱で荒れ果てていたこの地を開墾し領主となったという、伝説的な人物です。

現在の是政には多摩川競艇場のほか、ソフトボール場、サッカー場、野球場などがあり、多摩川沿いの「府中多摩川かぜのみち」はサイクリングやランニングをする人で賑わっています。河川敷の郷土の森公園ではバーベキューを楽しむこともできます。
 

井田是政墓(日吉町1丁目)

東京競馬場の中に井田家の墓所があり、「井田是政墓」として都の旧跡に指定されています。競馬ファンの間では有名な、第3コーナー付近の「府中の(おお)ケヤキ」のある場所で、是政塚とも呼ばれています。(実際に植わっているのはケヤキではなくエノキの木とのこと。) 1933年、目黒にあった競馬場が府中に移設される際、井田家の人々の希望でここに残されることになったそうです。この塚付近からは鎌倉、室町時代の板碑も出土しています。

西蔵院(さいぞういん)(是政3丁目35番地)

「鼻取り地蔵」の伝説で知られています。ある時、ひとりの農夫が田で(しろ)かきをしようとしますが、馬は暴れて少しも動こうとしません。農夫が途方に暮れていると、どこからか一人の小僧さんが現れ、馬の鼻取りをしてくれるといいます。すると暴れ馬は大変おとなしくなり、あっという間に代かきが終わってしまいました。翌日、農夫が西蔵院(さいぞういん)の地蔵尊にお参りに行くと、地蔵尊の腰の周りが泥だらけだったのです。以来、この地蔵尊は鼻取り地蔵と呼ばれるようになりました。

白糸台

現在の白糸台地域は、江戸時代には上染屋(かみぞめや)村、下染屋(しもぞめや)村、車返村と称されており、車返村の古名(こめい)を白糸村といいます。染屋(そめや)・白糸という地名は、その名のとおり製糸や布染めに由来するようです。この地域は昔から蚕を飼い絹糸を作っており、それを世田谷の砧に送り、糸をさらし、それを上染屋(かみぞめや)下染屋(しもぞめや)にまわし、糸を染め上げて、八王子の織屋に送り、これを国府に納めたものである、という言い伝えがあります。近隣の「調布」「布田」といった地名と由来がよく似ています。

旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕(白糸台2丁目17番地)

太平洋戦争の末期、帝都防空の拠点であった調布飛行場の周辺では、戦闘機を空襲から守るための掩体壕が有蓋(ゆうがい)無蓋(むがい)合わせて約130基造られたといわれています。現存している有蓋掩体壕は三鷹市に2基、府中市に2基の計4基のみで、そのうちの1基が白糸台掩体壕です。2008年に市の史跡に指定され、保存整備工事を経て2012年より一般公開を開始しました。その大きさから、三式戦闘機「飛燕」を格納していたと考えられ、発掘調査では戦闘機のタイヤの痕跡や誘導路、砂利敷き、排水設備等も確認されています。

上染屋不動尊(かみぞめやふどうそん)(白糸台1丁目11番地)

国指定重要文化財の「銅像阿弥陀如来立像」が安置されています。像高48.8cm、台座12cmの小さな仏像で、円満・優美な相貌を持っています。背中の銘から、弘長(こうちょう)元(1261)年に上州八幡庄(群馬県)の友澄(ともずみ)入道によって鋳造されたことがわかります。毎年、東京文化財ウィーク期間中の11月3日(祝)に一般公開が行われています。

四谷

四谷と言えばJR中央線の駅名にもある「新宿区四谷(駅名の表記は「四ツ谷」)」が有名ですが、府中にも四谷という地名があります。ちなみにこの2つの「四谷」の地名の由来には特に関連は無いようです。
地名に「谷」の字がありますが、この地域は多摩川が洪水を繰り返していた氾濫原(はんらんげん)にあたり、谷とおぼしき地形はありません。古くは「四つ屋」の字があてられており、四軒の家が村を興した、という言い伝えが残っています。
(ちなみに昔の多摩川は大変なあばれ川で、たとえば「押立」という地名は、多摩川を挟んで府中市と稲城市の両方(りょうほう)に残っていますが、これは多摩川の洪水により村落が南北に分断されてしまったことによるものです。)

四谷の五本松(ごほんまつ)(四谷5丁目39番地付近)

江戸時代中期、甲州から来て商人が急病で倒れた時に、四ツ谷村の人々がこれを助けました。後に成功した商人は、この時の恩に報いるため、村の一社一寺三十八()にちなんで、38本のクロマツを植えたといわれています。この時の38本のクロマツは残念ながら現存していませんが、現在も多摩川の堤防に沿って松の木が植えられています。

「いしぶみ草紙(ぞうし) ~路傍の語り()たち~」

「いしぶみ草紙(そうし) ~路傍の語り()たち~」は、昭和59年(1984)以降に市内142か所に設置された、坂、橋、地名、道、渡しの「由来碑」のガイドブックです。ここで取り上げた江戸時代の地誌類に登場する地名やその解釈、地域に関係する歴史的な事柄、文化財などが紹介されています。
「いしぶみ草紙 ~路傍の語り部たち~」は図書館で貸出しをしているほか、市役所(ほん)庁舎の市政情報公開室で閲覧できます。また、市民相談室(市役所(ほん)庁舎1階)・市政情報センターにて1冊450円にて販売しています。是非、お手に取ってみてください。

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