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府中で生まれた江戸時代の代官 川崎平右衛門~ききん救った平右衛門~

最終更新日:2017年3月28日

昭和48年発行の「武蔵府中郷土かるた」「き」の札、「ききん救った平右衛門」に出てくる川崎平右衛門定孝(かわさきへいえもんさだたか)は、今から300年程前の江戸時代中頃、武蔵国押立村(現在の押立町)で生まれた人物です。平右衛門は、地元府中周辺の多摩川大洪水の後の治水工事や六所宮(大國魂神社)の東照宮の修理などに尽力するとともに、多摩地域の発展の礎となった武蔵野新田の安定化や新田村々の救済・復興の立役者となりました。さらに幕府代官として派遣された、岐阜県瑞穂市の輪中地帯での治水事業や世界遺産で有名な島根県大田市の石見銀山の経営でも活躍し、いずれも大きな業績を残し、多くの人々から尊敬され、感謝されました。
平成29年は、平右衛門没後250年の記念すべき年にあたります。ここでは市内を中心とした平右衛門の業績と各所に残る足跡を辿ります。
(以下取り上げた事柄は必ずしも年代順ではありません)

画像 平右衛門の肖像画
川崎平右衛門肖像画(複製・府中市郷土の森博物館蔵)

ここに描かれている衣服は、布衣(ほい)という江戸幕府より六位以上の身分を与えられたものだけが着ることが許されたものです。平右衛門の最晩年の姿を描いたものと考えられています。

平右衛門の業績

多摩川の治水工事

 平右衛門は、江戸時代中頃、1694(元禄七)年、押立村(現在の押立町四丁目)に生まれました。その頃の押立村一帯は、たびたび多摩川の洪水にみまわれていました。寛保二(1742)年の秋、大洪水があり、その復興を、平右衛門が押立の名主として、上下40kmにも及ぶ多摩川の治水工事を取り仕切るとともに、水害防止のために、多摩川沿いに竹を植林したのです。その治水工事の会所(工事事務所)が押立町四丁目の龍光寺境内一帯に置かれたことがわかっています。

六所宮東照宮の修理・再建

 平右衛門は、代々六所宮神主の猿渡家とは親戚関係にあり深いつながりがありました。なかでも、六所宮の随神門修理を一手に引き受けたと伝えられていたり、徳川家康を祀る東照宮(市指定有形文化財)の修理・再建にも貢献しています。(寛保3年(1743)の東照宮棟札は大國魂神社宝物殿で見ることができます)

飢饉救った平右衛門

 徳川八代将軍「吉宗」が主導した享保の改革で開発された武蔵野新田が、凶作などで危機に陥ると、平右衛門は、元文三(1738)年の武蔵野新田の大凶作の際には、大岡越前守の要請を受けて、農民を救済しました。郷土の森博物館常設展示室には、平右衛門の生家である川崎家に保存されていた元和元(1615)年をはじめとする籾米や種が展示されています。飢饉などのために蓄えられていたものと考えられ、平右衛門の飢饉への備えを物語る貴重な資料です。
 また、飢饉で苦しんでいた人々を救うために、平右衛門は、どんな作物がたくさんできるかを見つけるために、いろいろなものを植えさせました。その結果、ソバ、栗、ハトムギなどが良いことがわかったので、武蔵野新田の人々は、飢饉から救われたのです。

平右衛門の逸話

農民の救済

 平右衛門がとった武蔵野新田開発の施策は数多くありますが、ここではその一例を紹介します。
 平右衛門は、農民の生活安定のため、幕府から資金を引き出して、井戸掘りなどの公共事業を行うことで救済しました。その際、大人はもとより、赤子に至るまでを、仁、義、礼、智、信の五等に分けて、それぞれに穀(給料)を与えたのです。お守をされる子どもまで穀を与えていることからも平右衛門の人柄が偲ばれます。
  仁=鋤取りをする男性 麦三升
  義=もっこを持つ女性 麦二升
  礼=ざるなどにてモノを運ぶ女性と子ども 一升五合
  智=子どものお守をする女性と子ども 一升
  信=お守をされる子ども 五合

象にまつわる話

 当時としては大変珍しいことですが、ベトナムから象が江戸に渡ってきました。平右衛門は、当時牛の糞を漢方薬に用いることから発想したのか、その象の糞を精製して漢方薬として売り出したのです。その許可を出したのが、江戸町奉行だった大岡忠相でした。その頃から、すでに名主そのものの仕事を超えて活躍した方だったといえます。

平右衛門の銅像が指しているのは?

 郷土の森博物館の平右衛門広場には、平成3年、平右衛門を顕彰するために制作された銅像があります(府中とはゆかりの深い、彫刻家で画家でもある、関頑亭氏の作)。肖像画とはちがった、平右衛門の自愛に満ちた人柄がにじみ出た銅像です。その銅像の右手が指している方向は、遠くは赴任地である岐阜県瑞穂市や島根県大田市なのですが、すぐそばには、現在も市内の小学生を中心とした子供たちが毎年お米を作っている水田があります。子どもたちの田植え体験には、市内の農家の皆さんがボランティアとして協力してくれています。農民のことを第一に考え、農民と協働で新田開発を行った平右衛門も、とても喜んでくれていることでしょう。
また、この像の後にはサンシュユの木があります。毎年3月上旬頃、寒風にめげず、可憐な黄色い花をつける春を知らせる木です。武蔵野新田開発に成功した幕府は、その労をねぎらい、後々までも苦労を子孫に伝えるために、このサンシュユを開墾の記念樹にしようと、平右衛門を通じて、82の新田村、各名主に分け与えたので、銅像の設置にあわせて、博物館に植えられました。
さらに、各地の産業興隆事業に尽力し、小金井サクラを植えたのも平右衛門です。

平右衛門の墓

 龍光寺境内には、東京都の文化財(旧跡)に指定されている平右衛のお墓があります。平右衛門は、今から250年前の明和四(1767)年、6月6日、江戸の地で、74歳で亡くなっています。そのお墓については、江戸時代の終わり頃に編さんされた歴史書に、「府中の龍光寺に葬る」と書かれています。お墓には、蓮の花をかたどった台座の上に、墓石がのり、表面には、「霊松院殿忠山道栄大居士」の法名と、「明和四丁(ひのと)亥(い)年六月初六日」の文字が刻んであります。今から250年前の歴史が偲ばれる貴重な文化財です。

川崎平右衛門没後250年記念事業

 平右衛門は、府中出身でありながら、武蔵野新田開発に尽力し、まさに今の多摩地域の発展の礎を築いた上に、美濃国や石見銀山で治水事業等でも多大な功績を残した、郷土府中の偉人といえます。
 江戸時代中頃の農業政策の大きな課題だった新田開発と治水に尽力し、赴任地に供養塔や神社が建立されていることは、絶えず農民のためを考え、農民から愛された結果と思います。その赴任地である小金井市の真蔵院には供養碑が、国分寺市妙法寺には、報恩塔があります。
 本市では、平右衛門没後250年を記念して、平成29年5月20日(土曜日)と21日(日曜日)に、平右衛門ゆかりの自治体や市民等と協働で、「川崎平右衛門ゆかりのまち交流事業」を予定しています。その詳細は、広報でお知らせします。
 また、没後250年記念事業では、関係自治体等にも協力いただき、様々なイベントを企画してもらっています。そのトップとして、現在、東京都江戸東京たてもの園で、「特別展 川崎平右衛門-武蔵野新田開発の立役者-」展が開催されています。5月7日(日曜日)まで開催されていますので、ぜひご覧ください。

展示に関する問合せ

文化スポーツ部ふるさと文化財課
電話:042-335-4376

画像 郷土かるたのきの絵札の画像
郷土かるたの「き」 ききん救った川崎平右衛門

お問合せ

このページは文化スポーツ部 ふるさと文化財課が担当しています。

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