国司館(こくしのたち)と家康御殿史跡広場 国史跡武蔵国府跡(くにしせきむさしこくふあと)国司館地区
最終更新日:2024年5月16日
国司館と家康御殿史跡広場(国史跡武蔵国府跡国司館地区)は、府中市本町1丁目14番地に所在する飛鳥時代から奈良時代前期(今から約1300年から1250年ほど前)の国司館跡と、安土桃山時代から江戸時代前期(今から430年ほど前)の徳川将軍家の府中御殿跡が発掘された府中市の歴史を象徴する史跡です。
平成20年(2008)から平成23年(2011)にかけて、JR府中本町駅前の開発事業に伴う発掘調査が行われ、平成23年2月に武蔵国府跡の追加指定として国の史跡に指定されました。その後、保存・活用・整備事業を開始し、平成28年(2016)から平成30年(2018)まで第1期整備工事を実施し、平成30年11月から一般公開しています。現在は、歴史的価値を高めることと駅前のにぎわい創出の両立を目指した第2期整備に取り組んでいるところです。
施設の概要
国史跡武蔵国府跡国司館地区を
・10分の1スケールで復元した国司館の復元模型
・原寸大で復元した国司館の柱
・武蔵国府スコープ(貸出しタブレットで見るVR映像)
などで、わかりやすく紹介する施設です。
外観
復元した模型と柱
国司館とは
国司館とは、奈良時代前期に、都から武蔵国の国府に赴任してきた国司の居宅。そこでは、国司が宿泊逗留するだけでなく、様々な儀式や饗宴が行われ、都から最先端の文化が伝えられた国府の重要な施設でした。国司館は、発掘調査の成果から、国司館のもっとも中心的な建物で、居宅兼執務室、宴の場などの機能があった主殿、日常の執務や様々な儀式に対応する脇殿、それらの物品の保管などの機能があった付属建物を10分の1サイズで復元しました。
国司館復元模型
■古代武蔵国府の国司館10分の1復元模型
国司館の歴史的価値をわかりやすくお伝えするために、1/10の模型を制作しました。
主殿と脇殿の前の広場は前庭(ぜんてい)といい、様々な儀式等が行われました。そのため、前庭には国司等の人形を置いています。
●主殿 奈良の都からここ武蔵国府に赴任してきた国司が在任期間中に暮らした館の中心施設です。国司の生活の場であるとともに、様々な儀式や饗宴(宴)にも使われました。四面に廂(ひさし)が付いており、格式の高い様式となっています。
●脇殿 国司とその従者などが仕事や生活で使っていた建物で、様々な儀式や饗宴(宴)にも使われました。
●付属建物 国司などが使用する生活用具、儀式や饗宴で使う備品などを保管した建物と考えられています。
●国司等人形 国司の着任の儀式を再現しています。主殿前中央に国司が立っています。こちらを向いているのが筆頭国司の「守(かみ)」(濃いオレンジ色)、その前に立っているのが2等官「介(すけ)」(明るいオレンジ色)、3等官「掾(じょう)」(濃い緑)、4等官「目(さかん)」(薄い緑)です。女官や兵士なども居ます。
●松の木 古代の都や国府では、松が好まれました。万葉集にも松がたくさん詠まれています。
●竪穴建物跡 営繕等の作業場として建てられました。場所を平面で表示しています。
■国司館10分の1復元模型の制作について
1 発掘調査成果や建築史学の比較検討結果に基づく復元
模型の復元にあたっては、発掘調査の成果と、その再検証を踏まえ行いました。また、国内各地の発掘事例や平城京長屋王邸などの復元事例を調査研究したうえで、府中市文化財保護審議会委員で建築史学を専門とする藤井恵介氏(東京大学名誉教授)の指導のもと、同じく建築史学を専門とし、府中市郷土の森博物館での武蔵国庁復元模型制作の実績もある渡邊保弘氏(株式会社文化財工学研究所代表取締役)に、復元案の検討及び設計図を作成いただきました。その結果を検討し、府中市が制作したものです。
復元対象は、主殿、脇殿、付属建物の三棟の掘立柱建物としました。また、竪穴建物は、同時期に建てられたものの、きわめて短期間の存続で、作業場的な役割だったと考えられるので、復元せず、その範囲を表示することとしました。
なお、10分の1の古代国府の国司館復元模型としては、国内で唯一です。
2 復元模型制作の基本方針
(1)対象とした時代は、国司館の特徴をもっともよく現している奈良時代前期(8世紀前半)としました。
(2)考古学の発掘調査成果や建築史学の比較検討などを経て、学術的根拠に基づいた復元を行いました。
(3)復元模型の素材は、ERPです。(注記:Fiber Reinforced Plasticsの略で、繊維強化されたプラスチックのこと)
3 国司館で行われていたこと
ここで復元した8世紀代の国司館は、奈良の都から武蔵国府に赴任してきた国司の宿泊地=生活の場でした。生活の場であるとともに、一年を通して、接待(饗宴)や歌会をはじめ、様々な儀式や宴が行われていました。都出身の国司の知識や教養に基づく最先端の文化が、ここ武蔵国の国府で花開いていたのです。
なお、武蔵国府スコープやタブレットで見られるVR映像のなかでは、国司館の説明やそこで行われていた蹴鞠のシーン、多摩川を題材とした歌会とその宴のシーンなどが再現されています。ぜひご覧ください。
国司館と家康御殿VR復元
■古代武蔵国府の国司館と徳川家康御殿をVR映像で見られます
古代武蔵国府の国司館と徳川家康府中御殿のイメージをわかりやすくお伝えするため、人物が動く映像を入れたVR映像を制作しました。
なお、古代の国司館の建物は、発掘調査の成果などをもとに再現し、徳川家康府中御殿は、発掘調査が一部しか行われていないので、あくまでイメージ映像として作成しました。
管理事務所で、武蔵国府スコープ(もしくはタブレット)を借りたら、ポイント0から案内に従い、順次園内を回ってください。各ポイントに行くと、番組が流れます。ビューポイントは、全部で5か所です。
■各ポイントの解説
- ポイント0:使用上の注意点をお伝えします。
- ポイント1:模型の解説と、上空から国府域全体を俯瞰できます。
- ポイント2:古代の蹴鞠(けまり)を再現したシーンが流れます。
- ポイント3:主殿内部で行われていた万葉集を詠む宴を再現したシーンが流れます。
- ポイント4:徳川家康府中御殿で、家康が鷹狩りに行く前のシーンと多摩川周辺で行われた鷹狩りを再現したイメージ映像が流れます。
- ポイント5:発掘お宝ゲームです。発掘調査が行われていた時の現場全体を見ながら、5つのお宝を探します。皆さんも考古学者になって、お宝を見つけてください。何が出るかな???
■徳川家康府中御殿とは?
●府中御殿とは?
府中御殿は、天正18年(1590)に、徳川家康が豊臣秀吉を接待するために造営したとする説が有力でした。しかし、近年では、豊臣秀吉本人が御殿を造ったとする説も有力視されています。
東海地方から関東地方に100以上造営されたとされる御殿のなかでも、初期に造られたものです。
発掘調査では、徳川将軍家の初期の「三葉葵紋」の鬼瓦が発見されたことから、ここに徳川将軍家の府中御殿があったことが証明されました。
●いつまで使われたの?
府中御殿は、家康が鷹狩等を行う際に滞在した施設で、秀忠、家光の三代に亘って使われました。多摩川越しに富士山を望むことのできる府中随一の景勝の地であることや防備性も重視して、この地が選ばれたのかもしれません。
正保6年(1646)の府中大火で焼失しました。
●鷹狩りの目的は?
徳川家康は、歴代将軍のなかでも、特に、鷹狩りを好んだとされています。しかし、府中御殿が建てられた頃は、まだ徳川政権が安定しておらず、領地視察と軍事訓練が主な目的だったのではと考えられています。
●今も残る御殿と地名
この周辺には、「御殿坂」、「御茶屋街道」、「御狩(猟)場道」など、御殿にちなんだ地名が今も残っています。皆さんも探してみてください。
国司館主殿での万葉集を詠む宴(歌会)
国司館で蹴鞠に向かう国司
国司館での古代の蹴鞠
古代武蔵国府国司館主殿
解説資料(国司館と家康御殿VR復元) (PDF:507KB)
徳川家康府中御殿とは
府中御殿は、豊臣政権下の天正18(1590)年に造営され、徳川政権下に引き継がれ、家康、秀忠、家光の三代にわたって使われ、正保3(1646)年、府中大火で焼失し、その後は再建されませんでした。御殿とは、徳川将軍家が鷹狩りなどの際に宿泊逗留した施設で、家康、秀忠も府中御殿に滞在したことがわかっています。発掘調査で、徳川将軍家の初期の三葉葵紋鬼瓦が発見されたことから、ここに府中御殿があったことが考えられています。
所在地
本町1丁目14番地
開園時間
午前9時から午後5時
タブレット端末の貸出しは午後4時まで
利用条件
- ペットの入場禁止(盲導犬、聴導犬、介助犬を除きます。)
- 飲食禁止(水分補給のための飲み物を除きます。)
注記:芝生広場のみ、当面の間、飲食を可能とする試験運用を行っています。
- 禁酒
- 禁煙
- 火気厳禁
- ごみはお持ち帰りください。
休館日
年末年始(12月29日~1月3日)
施設概要
トイレ
水飲み場
交通手段
注記:駐車場はありません。
イベント等での使用
国司館と家康御殿史跡広場は、市が認めた場合には、イベント等に使用することができます。詳しくは、下記までお問い合わせください。
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お問合せ
このページは文化スポーツ部 ふるさと文化財課が担当しています。