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本多錦吉郎《景色》

最終更新日:2020年7月17日

画像 景色

ほんだきんきちろう けしき
明治31年(1898年)キャンバス、油彩 
64.9センチメートル×88.3センチメートル

 画家は、地面に直に座り込んで描いたのではないかと思われるほど、低い位置から風景をとらえています。画家のねらい通り、樹木はより大きく高く、大地は広々と、安定した大きな空間が生まれました。そのことによって、何の変哲もない普通の田園風景は、何か歴史的な、或いは劇的な情景に一変させられています。実はこれは府中市大國魂神社に続くけやき並木を描いたものであることが、戦前の写真絵はがきとの比較で分かっています。
 周囲の落葉等の表情からも、いうまでもなく時季は初冬でしょう。中央の村娘たちの足下に白い霜がひろがることから時刻は早朝で、しかも、黎明の後、日の出の直前の一瞬の景を画家はすかさず描きとってしまっています。一瞬の永遠化、これがドラマチックさを感じさせるもう一つの理由ではないでしょうか。この一瞬に深呼吸したならば、その冷たさはきっと胸が痛むほど、どこまでも空気は澄み渡っていてある種の気品さえ感じられます。初期の洋画作品でありながら、日本的情景の凛とした清々しい、そして堂々たる表現に成功しています。作者もこの作品は自信作であったのでしょう、明治美術会の十周年記念展覧会に出品しています。
 作者の本多錦吉郎は、幕末の武家の生まれでした。出身の芸州藩は、洋兵化をすすめるために雇った外人教師の通訳が必要となり、彼に英学の修養を命じました。このことがきっかけとなって、洋画家を志すようになりました。その後の彼の履歴には、武士らしい生真面目さと柔和な人格者としての面影が滲んでいます。本多は、上京して英国帰りの国沢 新九郎という洋画家がつくった彰技堂に学びますが、不幸にして師の国沢が急逝すると、遺志により彼が塾を継承することになりました。風刺雑誌の挿し絵画家として当時大変な人気を得た本多でしたが、昼は日々の洋画教授と画塾の運営に、夜は師の遺した洋画の手引き書を翻訳しながら、文部省に請われて洋画法の教科書を執筆するなど、昼夜をわかたず洋画の普及に全力を投じ、多忙を極めたようで、本多の本格的な作品が少ないのも無理はないようです。しかし長らく行方知れずであったこの作品が見いだされたことは、本多の画業をうかがい知る上でとても大きな発見であるといえます。
 本多の門下生には、画家となった人もいましたが、多くはその後地方の美術教師として活躍しました。洋画の教科書の執筆者として、また実際に洋画教育の美術教師たちの師であった点で本多錦吉郎は、明治洋画の一大功労者といえるでしょう。

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