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村山槐多《川のある風景》

最終更新日:2020年7月17日

画像 川のある風景

むらやまかいた かわのあるふうけい
大正3年(1914年)紙、水彩
24.3センチメートル×28.7センチメートル

 これは、早熟の画家・詩人として知られる村山槐多が18歳のときの作品です。ただし、彼はわずか22歳5ヶ月で亡くなっていますので、死ぬ4年前の作品でもあります。槐多の画業はほんの短い間、今でいえば高校生から大学生の間のつかの間の青春のひとときであったに過ぎませんでした。しかし、この数年間にいのちを燃やして描き残した作品によって、彼は大正時代の天才画家として長く記憶されることになったのです。
 明治29年(1896年)村山槐多は神奈川県横浜市に生まれています。4歳のとき京都に移住し、この地で育ちました。京都府立第一中学校在学中、いとこの画家山本鼎が京都に滞在して槐多に油絵道具一式を与えたりしたことなどから、次第に文学や美術を志すようになりました。大正3年(1914年)3月中学校(今の高校)を卒業、画家となることを決意し、5月には東京へ向かいます。途中、山本鼎の家があった長野県大屋(現上田市)に1ヶ月ほど滞在し、多くのスケッチや水彩画を残していますが、この「川のある風景」もそのときの作品と思われます。同年10月の第1回二科展に作品が入選し、以後日本美術院展などで活躍して注目されましたが、大正8年(1919年)2月には結核性肺炎により喀血して亡くなりました。「槐多の歌へる」などの詩集でも有名です。
 太い筆で大胆に一気に描ききる村山槐多の水彩には独特の魅力があり、水気をたっぷり含んでにじんでいる青、緑、朱の色彩はそれ自身の生命を持っているかのように動き、いきずいています。槐多にとって信州の自然は彼自身の肉体と生命の癒しとなり、感情とモチーフと筆触と色彩が一体になって見るものに訴えてくるようです。

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